新湊に、代々根ざしてきた吉久家。明治40年(1907年)、大工であった4代目・吉久竹蔵は、奈呉町曳山の板車を制作しています。その後、大正11年(1922年)には、古新町曳山の差車の車輪も制作しました。奈呉町曳山の板車は、令和元年(2019年)に修復されるまで、112年もの間曳き続けられましたが、一度も壊れることなく、しっかりとした作りだったと言います。
昭和27年(1952年)、5代目・吉久久蔵は、昭和5年の大火で類焼した荒屋町の曳山を再建するために、当時の町内会長として尽力しました。彫刻は、井波の名工たちに制作を依頼し、瑞泉寺の山門の意匠に倣ったほか、万葉集に造詣の深かった6代目・吉久登の提案により、大伴家持の「湊風寒く吹くらし奈呉の江に 妻呼び交し鶴さはに鳴く」という歌を鏡板の図案に取り入れました。
昭和32年(1957年)、6代目・吉久登が、紺屋町商店街にて和菓子店を創業します。曳山の差車を象った大最中などを販売していました。地元のもなかの皮屋が廃業したため残念ながら販売中止となったため、10月1日の曳山祭り前後の期間限定で、栗むし羊羹「やまの音」を販売するようになりました。
平成12年(2000年)には、7代目・吉久磨が古新町・東町・紺屋町の依頼を受け、曳山せんべいの販売を開始。